岐阜県飛騨市神岡町伏方

1979年01月元日~05日(29歳)


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ゲレンデスキー』  新穂高RWスキー場では地獄を見た。
現在、ひだ流葉スキー場は ”スターシュプール緑風リゾート流葉”に改名されている。
  7本のリフトに7本のコース、ゲレンデが2つ用意されている、東海でも屈指の規模を誇るスキー場
である。 かつては神岡町の町営スキー場「ひだ流葉スキー場」であったが、2004年に現在の名称になった。 開設は1959年。 現在の名称の由来は、旧神岡町地区に「スーパーカミオカンデ」という宇宙素粒子観測施設があり、東京大学名誉教授の小柴昌俊がノーベル物理学賞を受賞したことにちなみ
「星(スター)」というキーワードと、「シュプール」(滑った跡)と、緑風観光の「緑風」からきている。 ゲレンデには流葉温泉『ニュートリノ』がある。
ひだ流葉スキー場
  確か、今回で3回目となり、勝手知ったるスキー場となった。 全体に滑り易い緩斜面であるが、リフト最上部のみ、狭い急斜面があったと記憶している。 当時は写真を撮るより滑ることを優先していたので、記念写真しか無いことが残念である。
  何回目の銀嶺荘か忘れたが、夜にマージャンをしていると、隣りの部屋から ”ストーブが燃えている!”との叫び声があった。 ”ストーブは燃えているのが当たり前じゃ!”の返答であったが、本当に灯油が漏れてストーブが燃えていたのだった。
窓の外から雪をかき集めて消化は出来た。
奥穂高RWスキー場
  流葉スキー場にも飽きて来たので、近くにある奥穂高RWスキー場に行ってみようとの話しになった。 奥穂高RWスキー場がどんな所なのか予備知識無しでいったのであるが、その難度に驚愕した。 エキスパート級のゲレンデであり、下手糞が滑り降りられるゲレンデでは無かった。 最悪のアイスバーンとなっており、生きて下りるのが精一杯で、滑落防止ネットが張ってあったのが頷けた。 下までは板を外して殆どを歩いてしまった。 下り切るまで何時間掛かったかは不明。
ひだ流葉スキー場
  ひだ流葉スキー場へは、モトクロスチームの連中と毎年正月休みに何度か行っているが、例によって詳細の記録は無く、記憶も薄く残っているだけである。 写真を頼りにHPを作成してみた。
ひだながれはスキーじょう
Road Map :名神道を小牧ICで下りてR41をどんどん北進すると神岡町に流葉スキー場がある。
Route Map:同じゲレンデ飽きて来たので、途中、新穂高ロープウエイスキー場に行ってみる。

Road Map :R471の新平湯から県道475号線を北進して新穂高RW乗場に至る。
Route Map:新穂高RWの最上部、西穂高口駅がゲレンデの上部となる。
しんほだかロープウェイスキーじょう
  毎日、流葉のゲレンデを滑っていて、一通り各ゲレンデを滑り終えたので、近くにある新穂高ロープウェイスキー場に行こうとの話しになった。  そこがエキスパートのゲレンデとは知らず、ロープウェイで山頂駅まで行くと、ゲレンデは急勾配の逃げ場の無い狭い尾根筋であり、尾根筋の両側には滑落防止用のネットまで張られていた。 それだけならもがき苦しみながらも滑れたかも知れないが、上部はアイスバーンとなっており、とても下手糞スキーヤの手に終えるものだは無かった。
2003年にスキー場としては廃業したらしいが、この難関不落のゲレンデではファミリー層は滑れないので集客出来ないのは当然と思った。 当時もまったく滑った感じはまったくしなかった。
新穂高ロープウェイスキー場
追憶のゲレンデさんのHPから
 新穂高ロープウェイスキー場は、他の一般的なスキー場とは一線を画す存在だったと思う。
山岳スキーの色彩の強いスキー場はいろいろあるが、北アルプスの稜線といってもよい地点がゲレンデトップという迫力。 正面に笠ヶ岳、右手に槍穂高の素晴らしい景観。 スキー場廃業後もロープウェイはフルシーズン稼動していて、この景観を見るために観光客が冬場にも訪れる。 スキーコースはロープウェイ山頂駅(西穂高口駅)から狭い尾根をくだる、逃げ場のない上級コース(パノラマコース)に最大の特色があった。  一方、中間部から下にはリフトも設けられ、特に最下部の鍋平ゲレンデは平均12度の緩斜面だった。

岐阜県高山市奥飛騨温泉郷

1979年01月元日~05日(29歳)


ひだ流葉スキー場のゲレンデマップ。 流葉スキー場には毎年正月休みに3回行っており、3回共に ”銀嶺荘”に泊っている。
記憶から消えている ”銀嶺荘”の場所をネットから探してみると ”ロッジ銀嶺”の名前で見付けることが出来た。
ネットから探し出した ”銀嶺荘”の写真。 目の前がゲレンデだったのは覚えている。
当時、ゲレンデの全景写真を撮っていなかったので、ネットから探して来ました。
同じく、ネットから探して来たゲレンデの全景。 こんなんだったとの微かな記憶は残っていた。
写真と日付の関連付け判らなくなっているので、時系列では無くなっている。
スキーパンツもジャケットも一番ダサい時期だった。
流葉スキー場はマイナーなので
正月連休でもリフトは空いていた。
元気ですよー!
長い下積みで、緩斜面では足が揃う様になって来た。 急斜面に行けばボロが出るのは同じ。
緩斜面の鬼に近付いて来たが、まだ、ウェーデルンは
出来なかった様に記憶している。
女の子の前ではカッコ付けようと力んでしまう。
行動、言動は人類と少し離れている気がする男。
他のメンバーが写っていない。
みんなバラバラに滑っているのか?
くわえタバコ?
プレジャンプごっこで遊ぶ。
多彩な芸が出来る男です。
リフトに並んでいるのは身内ばかり。
正月休みの人気スキー場では、リフト待ち30分以上は当たり前で
あるが、ここ流葉ではリフト待ちすることなく乗れた。
運動神経の悪さがスキーの上達を遅らせている。
昼飯も ”銀嶺荘”で済まし、食後を寛ぐ。
誰かの子供をおちょくる。
夜は ”銀嶺荘”恒例のマージャンが始まる。
紅一点、どこかの奥さんも参加していた。
当時の第2RWの乗車料は
650円であったが、現在は
1,600円となっている。
新穂高RWスキー場のゲレンデマップを見ると、
西穂高口駅からのヤセ尾根の様子が良く判る。
当時、ゲレンデの様子の写真を撮っていなかったので、ネットから写真を探して来ると、当時を思い出す写真が見付かった。 西穂高口駅からの
ゲレンデ入口であるが、当時、ここは恐怖のアイスバーンになっていた。
同じくネットから探し出して来たヤセ尾根の様子。
ここもアイスバーンであり、とても滑降は出来なかった。
崖下に落ちない様にネットがはってあったのが印象的だった。
ゲレンデに入る前に玉砕覚悟を誓い合う。 又、天国でお会いしましょう。
上部のアイスバーン尾根では写真どころではなかった。
下るにしたがい、アイスバーンが新雪の深雪となり、
もう、スキー板を付けての滑りは出来なくなってしまった。
”こりゃ、ダメだね!”
”僕は平気だよ!”
こんなの滑れる訳がない。
後はスキー板を担いで登山道を下って行くことになる。
当時貰った ”銀嶺荘”の名刺。誰がここを見付けたのかは、
今となっては不明である。
集合写真を撮ると、我がメンバーが抜けており、誰かの親戚家族で知らない人ばかりになった。